髙橋 邦夫の生き様ヒストリー
有頂天だった頃の私
高校を卒業してすぐの私は、大手の川崎重工業で12年間、営業と資材購入の仕事をしておりました。
その後、新築専門の建築会社に入り、営業をしておりました。自分で言うのも変ですが、転職した会社が大手と違って伸び伸びと仕事をさせていただいたものですから、入社10ヶ月の間に飛び込み営業だけで2棟の受注を取り付けることができました。
当時はチラシもDMも何も無い時代だっただけに、とにかく私という人間を知っていただくため、何度もお客様のもとに通っていましたね。
ところが、そんな私に社長から「あんた給料泥棒やね!」と言われたことをきっかけに、10ヶ月で退職しました。今思えば、当時の私はよっぽど勢いづいていたのでしょう(笑)。
そして今度は、エクステリアの会社に転職して、同じく営業をすることになったのです。この頃の私は、営業に自信をつけてきた頃で、この会社でもすぐにトップクラスの営業成績をあげていました。その反面、お酒が好きだった私は、若気の至りで稼いだお金をすべて同僚や友人たちとの飲み代に使ってしまいました。
突然の失業と、偶然の開業
そんなエクステリアの会社では、常にトップクラスの成績をあげていたのですが、会社の方向性が変わってしまい、数年で閉鎖することになったのです。これによって、私は自動的に職を失うことになりました。この時は、さすがに焦りましたね。
そんなとき、これまでの自分を振り返ると、私の職歴は、一貫してお客様に関わる営業という仕事で、とくに後半の2つの会社では住宅関係の仕事をして参りました。そんな住宅と営業に関わる仕事が自分の生き方だと思い始めた33歳の頃に、友人から住宅の改修工事専門の会社を立ち上げたいということで、共同経営の話を持ち掛けられたのです。
この当時は、リフォームという言葉も無く、住宅の改修工事専門の会社が、果たして成功するものかと、不安でありましたが、職を失った私には、選択の余地もなく、誘われるままに共同経営の条件を受け入れることにしました。すると、言い出した友人が社長になるものと思っていましたら、なぜか私が代表をすることになったのです。実は、この会社が今の「筑豊住建」なのです。
友人との取り決めは、すべての経費を折半することになっていたのですが、その友人の売上が思わしくなく、わずか1年で退職すると言い出したのです。残された私は、友人が残した未払いの経費と、これからの事務所の経費、そして事務員さんの給料を賄うために、必死で走り回りました。
そして、後戻りが出来なかっただけに、1日に1件の受注をもらうということを心に決めて、毎日お客様のもとに出掛けていったのです。
このようにお世辞にも褒められない、ドタバタの中で「筑豊住建」を創業していったのでありました。
お客様の声が救いの声に
そんな状況で始めた「筑豊住建」の仕事は、決して楽な仕事ではありませんでした。
当時の建築業界では、リフォームという考え方が定着していなかったものですから、炭住の町を飛び込みで回りながら、壊れかけた入口の扉を見付けては「おばちゃん、このドア壊れとうよ!」と声をかけ、「良かったら、俺が直すけど…」と、その場で注文をいただいていました。
当時は、会社があたご団地の近くだったものですから、今度はその町の住宅の壊れた箇所の修理を地道に重ねていくことで、いつしか会社周辺のお客様からもご注文をいただくようになったのです。そして、そんなお客様から「あらー立派になった…」「髙橋さん、ありがとうね!」という感謝の声をいただけるようになりました。こうしたお客様からの感謝の声は、当時の経営者として不安な毎日を過ごしている私に、どれだけの元気と勇気を与えていただいたか分かりません。
こんな珍しいこともありました。それは、創業して1年目のある日のことで、工事の帰りに川沿いを歩いていると、たまに伺っている元炭鉱の鉱夫の方がお二人でスッポン釣りをされていたのです。呼ばれ、走っていくと、「今スッポンが釣れたけん、にいちゃんも今から食べに来んね!」と、誘われました。当時の私は、炭住のお客様から「にいちゃん」と呼ばれていました。
その川は真っ黒なドブ川で、そこで釣れたスッポンは泥を吐かせるのに時間がかかるだろうなと思いながら、とぼとぼと、その方の家にお邪魔しました。そこで振舞っていただいたスッポン料理には、本当にありがたかったのですが、なにぶんスッポンの見た目と泥臭さに、自分でも作り笑顔が引きつっていることが分るほどでした(笑)。
でも、私を呼んでくれたことの嬉しさから、そんなワケにもいかず、噛まずに飲み込んでいると、だんだん涙目になってしまいました。すると、「にいちゃん、そんなに旨いか!よし、今度はスッポンの生き血を飲ませちゃるけん!」と、赤黒い生き血をコップに注がれたときは、さすがにギョッとしました。
「これから、仕事があるものですから…」と、丁寧にお断りしたのですが、なんと、その数日後に、そのスッポンを振舞っていただいたお二人から、新築を依頼されました。
「にいちゃんは、俺たちのことをよう知ってくれちょるけん、任せられると思ってくさ…」と、いきなり2棟の注文をいただいたのです。驚いたのと、嬉しさが、ごちゃまぜになったことを思い出します。今思えば、あのときに、スッポンの生き血をお断りして、申し訳なかったかなと思ったほどです。
こんな具合に、この筑豊の町のお客様は、とても気風がよく、細かな打合せもそこそこにされて、とにかく「都合ようしちょって」の一言で、全てを私に任せていただけたのです。私は、信頼していただけたことの嬉しさと、そのことに責任を感じながら、絶対に喜んでいただきたいという思いで、必死で図面を引き、工事に取り組みました。
そして、出来上がりを見られたお客様から、「ありがとうね!」と、声を掛けていただけることが、何よりの喜びでした。こうしたお客様からの感謝の言葉の一つひとつが、今の「筑豊住建」の屋台骨を支えていると思っております。
忌まわしい事件
2005年の頃でしょうか。
一時期のニュースでは、悪徳リフォーム業者による訪問販売が続出し、リフォーム工事に対する信用が失われるという事件が立て続けに起こりました。
このとき、リフォームと名の付く会社は、どこも同じに見られ、お客様が心を閉ざし、信用が失われていく様子が手に取るように分かりました。私たちを含め、真面目に仕事をしてきた者にとっては、同じような目で見られることがとても残念でなりませんでした。
私はこの通り、口は悪いし、見た目もぶっきらぼうなので、お世辞にも立派な接客ではありません。でも、リフォーム工事だけは絶対に手を抜かずにやってきました。そして、そんな中でも「筑豊住建」を指名していただけるお客様がおられるということが、私にとって何よりの喜びでした。この喜びは、創業してすぐの知名度もブランドも何も無い私のことを信用して任せていただいたことへの感謝の気持ちに突き動かされながら、懸命にリフォーム工事に取り組んできた仕事へのプライドでもあります。
この事件をきっかけに、「筑豊住建」の仕事は、さらにお客様のことを察した工事のすすめ方というものに磨きをかけてきました。そして、これからもお客様から感謝されるような仕事をしていきたいと心に誓いました。
会社としての姿勢を貫く苦しみを味わう
このような事件に振り回されながらも、工事のあり方だけは特に神経を使いました。
とくに、お客様の生活を徹底的に理解して、そこに住まわれる方の心により添えるような工事を心がけました。私には、創業当初にお客様から支えていただいたことを伝えたくて、社員にも厳しい要求を続けるものですから、社内では何度も衝突が起こりました。
でも、その甲斐があって、今は、ようやく私の思いを汲んでくれる社員にも恵まれ、今の「筑豊住建」になったのです。ここまで辿り着くまでに、28年もの歳月がかかりました。
これからの「筑豊住建」とは…
今はインターネットが盛んな時代です。そのせいか、リフォームの情報も数え切れないほど多く出回っています。それだけに、最近は、単に安さだけを求めておられるお客様も増えておられます。これは、今の時代がそうさせているのだと思います。
その一方で、私ども「筑豊住建」は、これからも工事をご依頼してくださるお客様が、何を求めておられるのかをしっかり受け止めていきたいと思っております。 私ども「筑豊住建」は、リフォームをされるお客様が、単にリフォームをされることだけをお望みではないことを知っております。リフォームを決意される前のことや、その後に何を望んでおられるのかをしっかり受け止めることで、安心と信頼をしていただけるのだと思っております。
私は、仲の良いお客様から、「あんたは、口は悪かけど、ほんに私らのことを察してくれるもんね…」と言っていただけます。この言葉は、これまでお客様に真正直に向き合ってきた私たちへの何よりのご褒美だと思っています。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
代表取締役 髙橋 邦夫